花見の始まり、歴史、由来を解説(そんな〇〇だった・・・・)




春と言えば桜!

桜と言えば花見

私は経験ありませんが、東京などでは、場所取りの係りとか作って、昼間ごろから青いレジャーシート広げて番をするんでしょう?

大変ですね。

最近はそんな場所にも出前が来てくれるとか!

そりゃエンドレスで盛り上がりますよね。

さて、花見始まりはいつ頃何が由来なのでしょうか?

そしてどのくらいの歴史があるものなのでしょうか?

一説には家康が広めたとかって聞きましたが秀吉の方が派手っぽいのにな~って思いました。

聚楽第とかで開いてそうでしょう?

結構長い歴史のある花見

その始まり由来を見てみましょう。

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日本人の心の花、桜

日本人の心を示すものとはと聞かれたとき、桜が真っ先に思い浮かぶ人が多いのはなぜでしょう。

これほど咲いてくれる日を心待ちにしてしまうのはなぜでしょう。

まだ寒い中に梅がほころび、桃が咲き、その次に開く桜。

あたたかな春と恵みの季節の本格的な到来を告げてくれる桜。

その歴史を少しひも解いてみました。

桜には神が宿る

咲くという言葉に最もぴったりくると「咲くものたち」の意味として「等()」の音が足されたなど諸説ある桜の語源の中で、最も愛されているのは古事記に登場する女神コノハナサクヤヒメの説ではないでしょうか。

天照大御神の孫であるニニギノミコトの妻となった美しい女神です。

海幸彦と山幸彦の二人の皇子を産み、安産の神様としても知られています。

・名のうちの「サクヤ」が訛って「サクラ」になった

・気の横に冠をかぶった女性が建っていることを示したのが「桜」の文字、それこそがコノハナサクヤヒメなど、その解釈は数多くあります。

木に花が咲くという繁栄を意味する子の木花咲耶姫・気花咲耶姫命の他にもたくさんの感じがあてられており、別名には「桜大刀自神(サクラノオオトジノミコト)」というものもあります。

和歌の中の花

和歌や古文の中で「花」とだけ書かれていた場合、奈良~平安朝(万葉集の時代まで)は梅を指し、古今集以降は桜を指す。と中学校で習った記憶がどなたにもあるでしょう。

これはなぜだったか覚えていますか?

キーワードは「遣唐使」です。

「学ぶ」の語源は「まねぶ(真似る)」

中国から伝わった梅は貴族の庭で造園の中心となり、漢詩に学んだ和歌の中でも長い間主役となりました。

今でも愛され続ける万葉集にも120首に、梅のことが読み込まれています。

同時に、古来より日本にもあった桜は「桜花」として読み込まれていることも見逃せません。

万葉の時代にも、桜は身近な春の美だったのです。

学問の神様として親しまれている菅原道真が遣唐使を廃止したのは894年のこと。

それとともに「花」が「桜」だけを指すようになったと言われています。

万葉集が現在に伝わる形になったのは806年ごろとされており、書き残された史実だけを見ると88年もの開きがあるので、その間に「花」と記されたものは類推の域を出ていないものもあります。

三十一文字に本一冊分にも値する長い情景を詰め込むとき「花は桜とするのが良いでおじゃろう」などと昔の人が話し合って決めたのかもしれないと考えると実に楽しいですね。

四人のお花見の始祖

花を愛で、春の到来と豊作を願うことは古来から・・・とされていますが、文学のなかった時代のことは後期の伝承であり、その始まりは定かではありません。

現在の形のお花見の始祖は、嵯峨天皇、豊臣秀吉・徳川家光・徳川吉宗の四人と言えるのではないでしょうか。

嵯峨天皇は、始祖中の始祖。

編纂を命じたとされる「日本後記」の中に812年京都の神泉苑にて花宴の節(せち)を催したと記述されているのが、文学としての最古の記録とされています。

ただし桜の花見とは書かれておらず、時期的に「桜であったろう」ということです。

その様子は執筆当時も大ブームとなった「源氏物語」の中にも登場します。

豊臣秀吉は「花見と言えば桜」を日本中に知らしめた人と言えるでしょう。

1594年に5000人もの人々を引き連れて行われた「吉野の花見」では、大名たちが今でいうコスプレをし、人々の度肝を抜いて楽しませたということです。

吉見神社を本陣としたこの花見の前年に1000本もの桜を植樹したのもまた秀吉でした。

晩年の1598年「醍醐の花見」の舞台となった京都の醍醐寺にも700本の桜を植えています。

農民であったことを終生忘れなかった秀吉が、植え育てることを大事にしていたことを私たちも忘れずにいたいものです。

江戸に美しい吉野の桜をもたらしたのは三代将軍徳川家光。

徳川家の菩提寺となる寛永寺を建立し、その境内や上野の山に吉野の桜を植樹しました。

太平の世では乱痴気騒ぎに無礼異なってしまうのは今も昔も変わりないようで、夜桜の宴が禁止されたり、庶民の宴会が禁止されたりしました。

それを解決してくれたのが暴れん坊将軍こと、八代将軍徳川吉宗。

今も庶民の町として親しまれる浅草の隅田川や北区の飛鳥山に大々的な植樹を行い、息抜きや物事の節目としての行楽を奨励しました。

東京のお花見名所のほとんどがこの時代に開かれたと言えます。

江戸の台所を支える農村へ桜の植樹を積極的に促したのも吉宗と言われており、見どころとしての賑わいや、桜細工による収入など二次的三次的な喜びをもたらしました。

これらの施策によって庶民から敬愛され、創作を加えた物語となって現代も愛されているのです。

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明治生まれオソメイヨシノ

今や、桜と言えばソメイヨシノ。

実際、日本の8割の桜の木がソメイヨシノだと言われています。

しかし、和歌に詠まれた桜も秀吉のお花見も、吉宗が庶民を楽しませてくれた桜も、ソメイヨシノではありません。

江戸以前の桜とは、山桜を代表とする自生種や、植木屋の努力などで生まれた里桜と呼ばれるもののこと。

山桜

里桜

里桜は代表的なものだけでも40種類以上あり、、本来一重として交配したものから八重がうまれたり、またその逆があったりと亜種の出やすい性質です。その性質を利用し、園芸品種として固定させたのがソメイヨシノです。

現在の東京都豊島区駒込あたりの、植木職人の町として有名だった染井村の植木屋によって生まれました。

時期については江戸末期とも明治初期とも言われていますが、明治説が有力とされています。

大島桜と江戸彼岸桜のハイブリッドであるソメイヨシノは接ぎ木によってのみ育成できるもので、いわばクローン。

それぞれの地であっという間に足並みをそろえて満開になるのはこのためです。

ソメイヨシノが本当にソメイヨシノになったのは明治33年のことで、長らく吉野桜と呼ばれていました。

秀吉の花見以降「花見と言えば吉野」と全国に知れ渡っていた吉野の桜にあやかっていたのです。

あらためて命名し「染井吉野」と最初に文字として記したのは博物学者の藤野奇命でした。

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