お風呂の由来!始まりは?-お風呂って気持ちいい―よね!




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日本人はお風呂好きですよね。

ネット上ではお風呂に入るお猿さんが人気で、さすがお風呂の国日本のサルだね~とか外国では言われているようです。

お風呂由来ってどんなんでしょう。

お風呂って風と呂ですがなぜこんな文字が当てはまったのでしょう?

気持ちいいお風呂ですが、水事情もあるのでしょうけれど、海外では贅沢ですよね。

お風呂に入る・・・湯船に浸かるっていうのも日本だけって感じですが、それも最初からでしょうか?由来気になりますね。

温泉が至る所にある日本だから始まりってそこでしょうかね?

お風呂に入って気持ちいい~って頭にタオルですよね。

風呂で一日の始まり!ってしてる人もいらっしゃるのでは?

気持ちのいいスタートですよね。

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日本のお風呂の歴史

日本列島は全国いたるところに温泉が湧いています。

伊豆の地名は、温泉が「湧き出る」ところから、「ユイズル」と呼ばれ、さらに縮まって「イズ」と転化したといわれています。

湯河原は、湯が淀む川原だそうです。

昔から日本人は温泉や石風呂(自然の岩窟を利用した蒸気浴のお風呂)に入浴していたそうです。

お風呂の歴史は6世紀に仏教が伝わるとともに、中国から伝わってきたと言われています。

仏教では「お風呂に入ることは七病を除き、七福が得られる」と説枯れていることから、お風呂に入ることは健康に良いと理解されていました。

以来、寺院では「体を洗い浄める」という大切な行の一つとして、浴室が備えられるようになり、浴室の無い庶民にも入浴を施したことから、お風呂に入るという習慣が始まったとされています。

大仏様で有名な東大寺には、多くの学僧や僧侶の心身を清浄にするため、寺院として初めての湯屋が作られました。

1282年に作られたとされる、現存する最古の浴槽、東大寺の大湯屋は、約1000リットルの大釜でお湯を沸かし、「鉄湯船」と呼ばれる浴槽(2000リットル~3000リットル)にお湯を供給する、給湯方式が採用されていたそうです。

平安時代、上流公家の入浴回数は、普通1か月に4~5回だったそうです。

ほかの日は行水をしていたとされていますから、少なくとも上流の公家たちは、2、3日おきにお風呂を使っていたことになります。

「明月記」には寛喜3年(1231年)関白藤原道家親子が自分の別荘に有馬の湯を、毎日牛車で200桶も運ばせて、入浴していたという記述があるそうです。

また、江戸時代には「御殿場」と言って、熱海の湯を人足が担いで江戸城まで運んでいたそうです。

江戸時代まで、「お風呂」と「湯」は区別されていたそうです。

「お風呂」とは釜に湯を沸かし、その蒸気を浴槽内に送り込み、暑い水蒸気により、体の垢を浮き上がらせて、適当な時間に外に出て、笹の葉などで体を叩いたり、なでたりして垢を落とし、近くに用意したぬるま湯や冷水で体を十分に洗うという物、「湯」とは、今日一般の家風呂や銭湯と同じであったそうです。

五右衛門風呂とはかまどを築いて釜を乗せ、その上に桶を取り付け、底板を浮蓋とし、その板を踏み沈めて入浴します。

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五右衛門風呂の名前の由来は、豊臣秀吉が石川五右衛門を釜ゆでの刑にしたという俗説から生まれたそうです。

五右衛門風呂は底が鉄製なのに対して、長州風呂は全体が鉄製です。

現在では長州風呂も五右衛門風呂として一般的に呼ばれています。

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長州風呂は大きな鉄の湯釜が浴槽です。

これに別の鉄釜でどんどん湯を沸かし、このお湯を浴槽に運び入れたり、桶などを利用して流しいれます。

適当に水を入れて湯加減を見て入浴します。

現代では五右衛門風呂と同じように下から加熱して湯を沸かせます。

五右衛門風呂との違いは、木の桶があるかないかだけのようです。

純粋な公衆浴場「銭湯」が登場したのは江戸時代と言われています。

家康が江戸入りした翌年、1591年には江戸に湯屋が開業しているそうです。

小屋の中に石を多く置き、これを焼いて水を注ぎ、蒸気を立てる。

その上にすのこを置いて入る蒸気浴だったそうです。

今でいうサウナのようです。

これは江戸の街の建設に携わる出稼ぎの庶民、労働者のニーズに応えるものであったようで、なかなか好評だったようです。

蒸し風呂から今日の銭湯に変わる前に「戸棚風呂」というのが出来ました。

その構造は、蒸し風呂の底に湯を入れ、下半身を浸し、上半身を蒸気で蒸しました。

お風呂と混浴をミックスした仕組みになっています。

サウナのように中で温まって、垢の浮いたところを洗い場で洗い落としたそうです。

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引き戸を閉めて戸棚に隠れるような感じから「戸棚風呂」と呼ばれたそうです。

燃料不足や水不足のためこういう形になったということだそうです。

その後「戸棚風呂」は、「柘榴口」というものに変わっていきました。

浴槽の外側を破風屋根の小屋で覆い、三方を羽板で囲んでしまいます。

一方の入口のみは開いていて、上から半分位のところまで板戸のようなものが作られました。

その板戸には三保の松原や、牡丹に唐獅子のような絵が描かれていたそうです。

そして、その左右の柱には、漆喰や金色の金具が巻いてあり、すこぶる美しかったそうです。

この入り口のことを「柘榴口」と呼んでいたそうです。

お風呂の浴槽に入る客は、この板の低い入口から頭を下げて入り、1,2歩先に進みます。

そこには2メートル70センチ四方で湯量が少なくて済むように浅くした浴槽があります。

内部は入口からの光線しかなくて、お風呂の中はこもった蒸気で暗く、人の顔もわからない状態だったようで、風紀上問題も多く、人が殺されていてもわからないといったことがあったようです。

銭湯が出来た当初はお風呂は混浴で、男湯・女湯の区別はなかったそうです。

老中松平定信による、寛政の改革(1791年)水野忠邦の天保の改革(1842年)などで混浴は禁止されたそうですが、徹底できなかったようで、明治時代になっても混浴は続いたそうです。

また当時から薬湯専門の湯屋もあったそうで、柚子湯屋菖蒲湯など、利用していたそうです。

今でいう「ハーブ風呂」です。

そして銭湯は流行に敏感な江戸っ子たちの社交場であったようで、様々な銭湯文化が生まれました。

そのころから日本では入浴という習慣が庶民の間で根付き、世界に類を見ない「風呂好き国民」となったと言えるでしょう。

風呂の語源・由来

風呂の語源はものを保存するために地下に作った「室(むろ)」からという説。

茶の湯で湯を沸かすための「風炉(ふろ)」空とする説。

「湯室(ゆむろ)」が転じたとする説など、多説あります。

風呂は平安時代末頃からありましたが、蒸気を用いた蒸し風呂形式のものを言いました。

湯を張って浴槽に浸かる形式の風呂は、江戸時代初期から現れるが、「湯屋(ゆや)」「お湯殿(おゆどの)」と言って、「風呂」と区別されていました。

正確な語源は未詳であるが、用いられた形式を考慮すると、「湯室」の説は考え難く、お茶の「風炉」も湯を主に考えると難しいため、「室」の説がやや有力だと考えられます。

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